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2009年12月11日 (金)

ノジュカーズのこと。(1)

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 私がたまに着ている「野宿人」とプリントされたTシャツ。私のブログを見て、「あのTシャツは、何?」と最近、何度か尋ねられた。まあ、ノジュカーズのことはそのうち書こうと思っていたので、そろそろ書いてみよう。しかし、この話は私の思い出話です。はっきりいってどーでもいい内容です。ごく一握りの人以外には退屈だろうと思います。

 「ノジュカーズ」の名前は「野宿」からきている。いろんなところに行ってテントを張り、火をたいて騒ぐという、集団である。野宿ではなくキャンプと言ってしまっても構わないのだが、キャンプ、という響きが薄汚い我々にはどうもそぐわなかった。やはり野宿、の方がしっくりくるのである。

 ノジュカーズが誕生したのは91年8月30日。今から20年近く前である。いやあ、そんなに経つのか。じゃあオレはまだ20歳位か。そう、20歳の私と、中学生の弟、ユンオが四国旅行に出かけ、ノジュカーズができた。私は幼い頃から6歳年の離れた、この弟が可愛くて仕方がなかった。アウトドア派の私は、以前から弟とよく釣りや虫取りに出掛けたものである。今回の2泊3日の四国旅行は我々としては冒険とも言えるものだった。青春18キップを使った、鈍行列車でののんびり旅である。2泊目に泊まろうと思っていた宿が、理由は忘れたがダメになった。確かサンリバー大歩危とかいう安ホテルだ。金がないので、他に泊まれる宿はなかった。弟と「どうしよう?」と相談して、野宿すっか、ということになった。小歩危駅下の川原で眠れそうな所を探す。私は右、ユンオは左。急峻な渓谷だから、デカい岩ばかりで、眠れそうな所はなかなかなかった。それでも狭い砂地を見つけ、私が戻ってみると、なぜかユンオはロッククライミングをしていた。こいつ、アホや…歩ける道がなかったので岩にへばりついて移動していたらしいのだが、そんな危ないとこ、行けるわけないやろうに。ともあれ、私の見つけた砂地に落ち着いた。装備はビニールシート、のみ。ライトは単一電池4本の大きな懐中電灯。暇つぶし用の駅で拾ったジャンプ。ノジュカーズ用語でいうところの「ピュア野宿」である。そんな状態だったが、不安はなく、むしろウキウキして夜を迎えた。しかし熟睡中だった明け方の3時頃、雨が降ってきて駅舎まで逃げた。雨男チョリオの伝説はこの時から始まったのかも知れない。

 翌年の92年9月1日。正式なノジュカーズの活動はこの時から始まった。HとWの二人が、初めて野宿に参加したのである。ちなみにこの二人と私を加えた3人は後のノジュカーズ「幹部」となるのである。HとWとは同じ高校、同じブラスバンド部の同期であった。高校生の時はそれほど仲の良い友達でもなかったが、卒業した後、あるショッキングな出来事があり、よくつるむようになった。
 ある時Wから「Hって今一人暮らしなんやて。遊びに行ってみないか」というような誘いがあった。二人でそのマンションに行ってみると、入れない。オートロック式の出入り口なのである。誰か居住者が出入りするまで入れないのである。当時は携帯電話などない。それどころかH宅には電話すらなかった。暫く待っていると消防車が来て消防士が我々に質問してきた。「この辺りで火事があったようですが知りませんか?」と。我々は何も知らない。もうしばらくすると、ドアの向こうにHが見えた。「よう来た、早く早く」なぜか随分急いでいるようだ。久しぶりの対面もそこそこに、彼の部屋に入る。暑い。「実はな、二人が来るからご馳走作ろうとコンロめいっぱい使ってたら火災報知器が鳴ってな」
 犯人はおまえか。
「ほんで火災報知器は?」
「はずして冷蔵庫で冷やしてある」
 凄いヤツがいたもんだが、こんなものはほんの序の口である。イベントメーカーの異名を持つ、彼のことを知っている人には分かるはずだ。高校の時、Hはおとなしく、真面目な奴だった。あだ名も「お地蔵さん」、はっきり言ってしまえば面白味のない奴だったのに、なぜこんな壊れた性格になってしまったのだろうか…まあその話も面白いからそのうちに。彼のことを書き出すと書くことが多すぎて困る。
 まあ、その久々の対面から我々3人はよく一緒に遊ぶようになったのである。で、私は二人に野宿の話をしてみた。「やってみんか?」と。私は四国の初野宿の後、ユンオと2度ほど野宿しており、けっこうハマりつつあったのだ。「やってみよう」
 かくして、9月1日、3人は保津峡で野宿をしたのである。この時実は凄いモノを作って持っていった。SIS、スーパーイマフクシステム。ロケット花火を一度に大量発射できるシステムだが、たかが花火と侮ってはいけない。アレはもはや花火ではなく兵器である。現在ではSISの使用はノジュカーズ条約により禁じられている。ただし、危ないから、とかではなく、大量にゴミが出るからである。こんな大がかりなモノは持って行っていたが、この時の装備は相変わらずビニールシートとデカい懐中電灯のみ、であった。

 保津峡の野宿がよほど楽しかったのであろう。我々3人は1週間後に次の野宿に出かけた。美浜海岸、久々子海水浴場である。Hの入れ込みようは凄まじく、テント、ガソリンコンロ、飯ごうなどの装備を自分のお金で調達していた。その装備の多さからこの時の野宿は「戦後最大の物量作戦」と呼ばれている。ただ、私はこの時テントで寝ることを「潔くない」と思っており、一人で外に寝た。しかし蚊の猛襲に遭い、1時間もしないうちに白旗を揚げてテントに逃げ込んだことを覚えている。

つづく、かな?

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コメント

なるほど…

ノジュカーズって名前はチョリオさんからよく聞いていましたが
原点は20歳の頃だったんですね。

けど、ほんまアウトドア好きと言うか… それは今も変わってないって事ですよね。ヽ(´▽`)/

6歳(ほんとは7つ)下の可愛い弟です。

いやあ、ついにこのネタを引っ張り出してしまったね。

サンリバー大歩危は、すでに潰れていたんだよ。

ところで、燕岳に俺のシリオは着いていったんかい?

帆亭さん、コメントありがとうございます。
>けど、ほんまアウトドア好きと言うか… それは今も変わってないって事ですよね。
全くですね。これからも変わらんと思います。

おお、ジョージ。よう来たな。
>サンリバー大歩危は、すでに潰れていたんだよ。
やっぱ、そうやったか。
なんとなく記憶があやふややってな。

>ところで、燕岳に俺のシリオは着いていったんかい?
おう。あれで登った。ちょっと鼻水付いたけどな。
ええ靴や。くれんか?

こんばんわ(^^) 

燕岳の写真といい、ノジョカーズのことといい・・・
一生懸命というか、くぞガキというか(失礼・・m(__)m) 

すごくかっこいいですよ!
これからも応援してます(^^)

Y本さん、ようこそ、いらっしゃいませ。
そうですね、精神年齢はまだ10代なので、まだコドモですねぇ。
これからもよろしくお願いします!

こんばんは。
ラスト5分、全米が泣いた…かも。な、ノジュカーズ誕生秘話がついに語られる!
SISってそんな初期からあったんですね。
聞いたことのある話もあれば、初めてうかがう話もあり、
続きを楽しみにしています!

戦後最大の物量作戦は初の沖縄久米島行戦闘だった、スパゲッティー、まるたいらー麺、空のペットボトル4本までも大阪から持っていくという念の入れようリュックサックを背中と前に背負い・・手にはスーパーの袋を持っての機内搭乗だった
ちなみに火事の事件はポンプ車2台はしご車1台シュノーケル1台パトカー2台来た立派なもの(補足

たまきさん、コメントありがとう。
随分遅い返事になってしもたわ。

>SISってそんな初期からあったんですね。
そうね。そういやその時の材料は全て阿○野高校の備品で作ったんよ。

>続きを楽しみにしています!
いやあ、続くかなあ…知っての通りめんどろくさがりやからな。

来たかい!みけねこ!いやさ隊長!!
>戦後最大の物量作戦は初の沖縄久米島行戦闘だった、〜手にはスーパーの袋を持っての機内搭乗だった
初の久米島は飛行機やなくて、飛龍2号やったやろ?いや、しかしすんごい荷物やったな。帰ってから鞄ん中からニンジン出てきたわ。
帰りは変更して飛行機やった。お金だいぶ借りたなあ…

>ちなみに火事の事件はポンプ車2台はしご車1台シュノーケル1台パトカー2台来た立派なもの(補足
ホントに立派やね…

また来てね!

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